昨日から本日にかけて「嫌われる勇気」を読みました。
岸見一郎さんと古賀史健さんの共著書です。
今回は書評という形ではなく、レビューという形で残したいと思います。
私が「嫌われる勇気」を読むのは、3回目となります。
読書ノートにも記録を残しており、先に読書ノートを一読してから本書を読み直しました。
流石にノートだけよりも理解が深まった気がします。
本当は、続編の「幸福になる勇気」も持っていたのですが、引っ越しの際の整理で捨ててしまいました。
「嫌われる勇気」の方が衝撃的でしたし、「幸福になる勇気」では同じことを繰り返し書いているだけのように思えたからです。
さて、「嫌われる勇気」を読み終えての感想は、最初に読んだときほどの衝撃はなかったものの、忘れていた教訓を思い出すことが出来ました。
今回の読書で私が一番気になったものは、仕事の定義です。
アドラー心理学での仕事の定義は、経済的に働くかどうかではありません。
専業主婦だって立派な仕事だと考えます。
仕事というよりは、役割と考えた方がしっくりくるのかもしれません。
今の私は、無職で働いていません。
だから「仕事のタスク」が出来ないのかというと、そんなこともありません。
居候として、母の為に出来る事は何かを考えて実行することが、私の「仕事のタスク」になるはずです。
これから私の未来を考えた時に、様々な選択肢があります。
一人で独立して一人暮らしをする場合や、なんやかんやで新しい彼が見つかるなり、よりを戻す場合、さらにその場合には、結婚した時に専業主婦になるのか、働き続けるのかという選択もありますし、子どもの問題もあります。
一人暮らしは自由気ままですし、経済的に自立しているという社会的ステータスも得られるので魅力的です。
しかしいつまでも一人暮らしという訳にはいきませんし、アドラーの言う「愛のタスク」に進めなくなってしまいます。
もし男性と結婚する場合、私は働きたいと思います。
それは何故なのか?
その根底には、男性に裏切られるかもしれないという思いがあります。
例えば旦那さんが専業主婦になった私に対して高圧的な態度を取ったり、脅迫めいたことをしたりする可能性を考えているからです。
しかしアドラー的にいえば、ある意味そういう旦那さんの態度は未熟な態度になるわけです。
だからといって、私に旦那さんの態度を変えさせることはできません。
そうなったときに、私はどういう態度を取るべきなのでしょうか。
私が大学生の時に、母は一度失職しました。
それは会社の倒産にも関わる事案で、仕方のない失職でした。
しかしその時の家族の態度が、私には印象悪く映りました。
支えようというよりは、職についていない母を批判し、能力がないかのように扱っているように見えたのです。
過去の話ですし、私の勘違いかもしれません。
でも友人の話を聞いても、経済的な役割を持っている人が、まるで家族の中で権力を持っているかのように振る舞うことは、割とよくあることであるように感じます。
しかし、アドラーは言います。
経済的な役割を果たしているかどうかと、その人に価値があるかどうかは全く関係がない、と。
そしてそのような高圧的な態度をとる人は、経済的な指標を取り除いてしまったら、他に主張できる部分が無いので、そのような態度をとるのだと。
この言葉には大いに勇気づけられるところがあります。
しかし、自分が実際に専業主婦となって、旦那さんに高圧的な態度を取られたとして「あなたって子どもっぽいのね」などと言えるでしょうか?
しかもこれは「旦那さんの課題」なので、私にはどうすることもできません。
しかしそこで「では別れましょう」としてしまうと、私は「愛のタスク」から逃げることになってしまいます。
さらには経済的に非常に不利な立場に立たされるでしょう。
世の中には色んな価値観を持つ人がいます。
皆がアドラー心理学を信じれば、理解も早いかもしれませんが、この考え方を受け付けない人もいるかもしれませんし、本が嫌いな人もいます。
しかし他者が協力的でなかろうとも、私が今、ここから始めなくてはならないのです。
レビューなので詳しい用語の解説は省きました。
アドラー心理学に興味を持たれた方は「嫌われる勇気」を読んでみることをオススメします。
この本は、かなり平易な言葉で書かれており、理解しやすいです。
さらにアドラー心理学を本当に理解する為には、「今まで生きた年数の半分」かかると言われています。
あなたが一日でも早くアドラー心理学と出会えますように。