昨日、家族と話していました。
正しいってどういうことだろうか?と。
日常生活のあらゆる場面で選択を迫られることは、よくあることだと思います。
あの時私は、ああしてしまったけれど、それは本当に正しかったのだろうか?と思い悩む人も多いのではないでしょうか。
どのような場面であれ、完璧に正しい行動というものは、きっと存在しないのだろうと思います。
十人十色、それぞれの答えがあり、時に衝突するものでしょう。
それでも、曲りなりにも自分の意見を持ち、主張する大切さがあるのだろうと思います。
何を問題とするかは、その人にとってその問題が、どれだけ自分事になっているかどうかで決まると思います。
例えば、私は精神障害を持っているので、心理学や障がい者に対する問題に関心があります。
しかし、周囲に障害を持っている友達や家族がだれもいない環境であれば、きっと特殊な世界として関心も持たなかったことでしょう。
そして現に、関心のない方もいますね。さぼっているだけだと、理解しようとしない方も、いらっしゃいます。
悲しいことではありますが、そういう方の気持ちもわかるな、と思います。
私は当事者なので、自分の病気の本を読んで勉強もしますが、友達にも周りに誰もそういう方がいなければ、私も冷たい視線を向ける人になっていたでしょう。
環境による影響は、無視できない事実だと思います。
精神障害という問題に対しては、関心がある私ですが、例えば犯罪加害者家族の問題などには、まだまだ関心が低いままです。
心理学の勉強の一環で、犯罪心理学を後々扱うことになると思うので、そのうちには、関係する書籍を読むとは思います。
しかし現在、知識があるかと問われれば、ないといわざるをえません。
もっと、名前も思いつかないような、深刻な問題を見過ごしているかもしれません。
私は、不完全です。
不完全なりに答えを出して、少しずつ改善していくことしかできません。
それは、きっと誰でも似たようなもので、不完全な人たちが集まって、何とか理想に近づこうと努力しているのでしょう。
大きな問題(例えば世界の貧困)を扱うことは、困難です。
自分事まで、落とし込むことが難しいからです。
落とし込む方法が、ないわけではありません。
その問題に直面している人たちのことを調べて、できる限り自分に置き換えて想像してみるのです。
20歳まで生きられないかもしれないのだな、とか。
外国人がいきなりやってきて、親の前から連れ去られる状況ってどのような感じだろう、とか。
想像力の翼をはばたかせて、仲間のことを自分に置き換えて想像してみると、なんだか心がざわざわしてきて、関心が沸き起こってくるのを感じませんか。
遠く離れた国の人の問題を考えることは、難しいと思います。
考えたからと言って、何かできることも少ないです。
でも関心を起こす方法がわかったら、ちょっとでも日常に取り入れてみてください。
今自分がこういうことを言ったら、家族はどう思うかな?とか。
これを自分がやっておいたら、家族は喜んでくれるかな?とか。
最小単位は「私とあなた」なので、家族に限らず友達でも誰でもよいと思います。
日常生活を送っていると、ついついこの毎日が延々と続くような気がしてしまいます。
しかし、本当は一日一日が勝負です。
明日には、何が起こっているか、全くわかりません。
毎日ルーティンの訓練のように思えても、状況は刻一刻と変わっています。
前回の反省を踏まえて訓練するとすれば、今回の訓練は、ある意味はじめての訓練になるはずです。
一回一回、一日一日が勝負である。
このことに気が付くことができれば、きっと今日が輝いて見えることでしょう。
と、言いつつ、私もまだまだその境地には、たどり着けていませんが。
とりあえずは、この記事をここまで読んでくださったあなたの今日が、輝いたものになりますように。
私自身も、少しでも前に進めるように、また読書を続けて行こうと思います。
比較する相手は、常に過去の自分です。
今日の私が、昨日の私よりも一歩でも前に進んでいますように。